コートを羽織っているまだ二十代であろう男性は、ここに張り付いて待っていたのかもしれない。大くんの名前を出されて恐ろしい気分になる。無視をしてその場から去って行こうとする私の背中に冷たい声が投げられた。「子供を過去に殺したのに、大物になったからまた近づいたんですか?」思わず立ち止まってしまうと、男性は近づいてきて顔を覗きこんできてニヤリとされた。「図星、ですか?」違うと言いそうになったけれど、そんなことを言うと過去に関係があったと肯定するようなものだ。「人違いではないですか?」グッと堪えて言い返す。どうにかバレないようにと思うと、鼓動が激しくなり、背中に汗をかいてしまう。男の人は口元に笑みを浮かべる。「写真、何枚かあるんですよ。それに情報提供もしていただいたんです」「とにかく、私は関係ありませんから」「へぇー」なんとか振りきって歩くけれど、すごく気持ち悪くてタクシーで自宅に帰った。家の中に居ても誰かに監視されているような気持ちになる。大くんに相談しようかと思うけどあまり負担をかけたくないから我慢しなきゃ。そんなことを考えていると大くんから電話が着た。私の不安な気持ちを察知しているようなタイミングだった。『美羽、今日は来ないのか?』「あ、うん。家に取りに行くものがあって……」『…………』「…………」『なんか、様子がおかしいけど、どうしたの?』鋭いな、大くん。それとも私がわかりやすい性格をしているのかな。「いつも通り元気だよ」笑って誤魔化すと、電話越しで大くんは悲しそうに、ため息をついた。『お願いだから俺から離れようとか、変なこと考えるなよ』「うん」『俺が美羽を守るからなんでも言えよ』「わかった」愛しの大くんの声を聞いて涙が出そうになる。本当は今すぐにでも会いたいけど外に出るのが怖い。私は一人でなんとか耐えていた。
それからも、なんとか出社は続けていたのだけど、社内では私が芸能人の子供を堕ろしたことがあると噂が流れていた。堕ろしたんじゃないと否定したいのにできずに過ごしている。しかも、相手が大くんだと気がつかれていたのだ。勘のいい社員は私と大くんがリッチマンゴープリンのコマーシャルで一緒に仕事をしていたことと関連付けたり、COLORとの仕事の契約がドタキャンになったことを持ち出してくる人もいた。社内にもCOLORのファンはいるようだし、社外に漏れるのも時間の問題かもしれない。ランチを終えて部署に戻るとデスクにメモが置いてあった。その内容を見て笑顔を消してしまう。『不潔女』と書かれていたのだ。「美羽……大丈夫?」千奈津が心配そうに覗きこんでくる。笑顔を作れずに、固まってしまう。そこに杉野マネージャーが近づいてきた。手には手紙らしきものを持っている。「総務に届いたんだと。総務のマネージャーが『これって噂になっている件じゃないの?』と言って渡してきたんだ」中身を開いてみると物凄い誹謗中傷が書かれていた。「お客様の問い合わせページなんて書き込みが今日で二十件だってよ」もう、社外でも噂は広まっているのだ。尾びれも背びれもつけた噂は、世間を飛び回っている。なんて恐ろしいことなのだろう。「初瀬……なんで黙ってんの?」杉野マネージャーは責めているわけじゃなくて心配そうな表情をしている。千奈津もだ。「あの。今日の夜、空いていますか?」「ああ」「千奈津も」「うん」「聞いてほしい話があります……」もう千奈津と杉野マネージャーには、黙っておくことができない。会社にまで迷惑をかけているのだから。仕事を終えた時伝えようと決意をした。
仕事を終えると、半個室がある居酒屋に直行した。私の前に座っている杉野マネージャーと千奈津。重苦しい空気で包み込まれているような気がする。「話ってなに?」「今まで黙っていてごめんなさい。……私、過去に紫藤大樹さんとお付き合いしてたことがあります」笑顔が消えた千奈津。杉野マネージャーは、やっぱりかという顔をしている。「驚かせてごめんなさい」「じゃあ、子供を堕ろしたって噂も本当なの?」私は頭を必死で横に振る。「出産は事務所の人に反対されていたけれど、私は何があっても産む決意でいたの。たとえ、彼と一緒になることができなくても……」赤ちゃんを失った時の悲しみは、忘れることができなかった。最近はあまり夢でうなされることはないけど、あの日のことを思い出すと胃がキリキリと痛んで涙が溢れそうになる。千奈津は女性として悲しみをわかってくれた表情をしていた。「当時は売り出し中だったから、自ら会わない道を選んだの。彼の才能を潰しちゃいけないと思ってね。なのに……十年ぶりに再会したの」「リッチマンゴープリンでね?」コクリとうなずいて言葉を続ける私。「封印した過去だったのに、運命のいたずらかと思った。お互いに忘れようと思っていたのに無理だった」「そうだったのね」千奈津は、噛みしめるようにうなずいた。「で、初瀬がこうやって苦しんでいるのに紫藤さんは動いてくれないのか?」杉野マネージャーは、こういう時も心配してくれる本当に優しい上司だ。「ちゃんと話そうと思っています。ご迷惑かけて申し訳ありません」「そのほうがいい。早く相談して健やかに毎日を過ごせるのが一番だと思うぞ」「はい」「そうだよ。美羽は悪くないんだから」二人に打ち明けることができて少し気持ちが落ち着いた。
しかし、状況は悪くなる一方だった。紫藤大樹のファンと名乗る人が会社の前で待ち伏せする人すら出てきたのだ。総務部には嫌がらせや無言電話が多くなり、明らかに仕事の妨害行為だった。ついに私は総務部長と広報部長に呼ばれてしまった。「キミは芸能界の人と関係があったのかね?」単刀直入に聞かれ少し驚いたけど、隠さずに言うしかないと思った。「はい」すると厳しい表情になって、空気は悪くなっていく。「ファンが来て会社は混乱している。しばらく在宅勤務をしてほしいと考えているのだがどうだろうか」「…………はい」会社に迷惑をかけているのは事実だ。素直に受け入れることにした。まずは一ヶ月ほど在宅勤務ということになった。勤務時間は自宅で働き、ほとんど外に出ることはなかった。大くんからのメールには元気そうなそぶりで返信しておいたけど、本当はかなり元気が無い。本来であれば今日は小桃さんのコマーシャル撮影に携わっていたはずなのに。どうしてこんなことになってしまったの。誰にも怒りをぶつけられないもどかしさが胸を支配していた。夕方になり部屋の中は薄暗くなってきた。仕事を終えると何もしたくなくてそのままベッドの中で過ごしていた。完全に暗くなったから電気をつけるとチャイムが鳴った。ドアを開くと大くんが立っている。二月七日に一日限定のバレンタインライブがあってその準備で忙しいはずなのに――。
「どうしたの……?」「どうしたのじゃないだろう。どうして美羽は一人で抱え込むんだよ」大くんは玄関に入ってきて盛大なため息をついた。「小桃さんが事務所に連絡してくれたんだ。美羽の会社の撮影に行って美羽がいないから理由を聞いたんだって」中に入ってきた大くんは、憔悴している私を抱きしめた。「一人で抱え込むな。なんでも俺に相談しろ」「大くん……っ」「美羽、痩せたな。ちゃんと食べてないんだろ?」心配をかけたくないと思ったのに、逆に心配をかけてしまった。「美羽を一人にしておけない。荷物をまとめて俺の家でしばらく過ごそう」思わぬ言葉に驚いて返事できずに大くんを見つめる。「会社は在宅勤務であれば俺の家で働いても問題ないんじゃないか?」「うん……」「じゃあ、俺と一緒にいよう」すごく迷ったけれど大くんが必死で言ってくれたから、提案してくれた通り私は大くんの家に行くことに決めた。着替えや必需品を詰めて外に出ると一人の男性が話しかけてきた。「お二人はどういう関係なんですか?」マスコミ関係者だと思い慌てて隠れようとする私とは対照的に、大くんは冷静に対応をはじめる。「彼女は一般人なんで、まず車に乗ってもらいます。ちょっと待っていてください」「大事な方なんですか?」「逃げないで来ますから、ちょっとだけ待っていてください」ピシャっと言った大くんは私を車に乗せて「対応してくるね」と行ってしまった。私のせいで……最悪な展開になってしまった。窓ガラスから外を覗くと大くんと男性は話をしているようでメモを取ってうなずいていた。不安な気持ちからか、私の手は汗で濡れている。私のせいでCOLORの人気が落ちてしまったらどうしよう。怖くなって目をぎゅっと閉じて体を折り曲げて小さくなっていると、大くんが戻ってきた。「美羽、どうしたの? 体調悪い?」「ごめんね、私のせいで」「ちゃんと対応したけどどんな風に書かれるだろうね」大くんは意外にもクスクスと笑っている。「大くん」ふたたび謝ろうとした私の言葉を遮るように大くんが言う。「もう謝らないで。美羽は悪くないよ。これが芸能界の仕事をしている宿命なのさ。困難なことも明るく楽しく乗り越えていこう。これからしばらく一緒に過ごせるなんてマジ嬉しい」笑顔で運転している大くんの横顔を見るとほっとする。やっぱり、私に
大くんのマンションに着いて中に入った。「社長とマネージャーに連絡するから」「うん」電話をはじめた。窓際に立っている大くんの背中を見つめる。「大樹です。実は雑誌に撮られました。美羽も一緒だったから記者と話をしたので、載ってしまうかもしれないです。事後報告ですみません。ええ、はい。美羽はしばらく俺の家にいます」電話を切って池村マネージャーにも連絡をし終えた大くんは、振り向いてニッコリとしてくれた。「あとちょっとだけ我慢してね。でも、もうすぐで俺らの関係を堂々と世間に言えるよ」大くんは、心から嬉しそうな声で言った。そして近づいてきて私の手をそっと握る。指を絡ませて手のひらを重ね合わせると距離が縮んで唇がくっついた。「ま、心配するなって」「うん……」「明日から家に帰って来たら美羽がいるんだな。たまんない。願っても叶わない夢だと思ったのに、幸せだな」優しい表情で笑ってくれるから、色んな嫌なことがあるのに、つい微笑んでしまう。「さ、晩飯どうする?」「あまり食欲なくて」「だーめ。ちゃんと食べないと。俺が簡単にパスタでも作ってやるか」腕まくりをして手際よく料理をはじめた。玉ねぎを切ってフライパンを器用に動かしてバターでさっと炒めている。「なー、美羽」「なに?」「ライブ見に来いよ。関係者席になっちゃうけど」「でも」「美羽に頑張っている姿を見てもらいたいな」そんなに可愛い顔で言われると断りきれないから「行く」と返事をしてしまった。
その二日後――。雑誌に大くんと私の記事が掲載された。大くんから連絡があって気がついたのだけど……。『電話もチャイムも無視しろよ』「うん……。今のところ平和だけど……」『何かあったら事務所にすぐに連絡しろよ』「大くん。お仕事頑張ってね」昼間のワイドショーでは『紫藤大樹、一般女性と熱愛。宇多寧々と二股か?』と報道されている。堂々とできればいいのにできないのが悔しい。マンションの外に出て大声で否定したい気分だ。どのチャンネルをかけても報道は加熱していた。インターネットのニュースのトップにもある。外の世界に触れるのが嫌になり、テレビを消した。部屋の中は静まり返る。お母さんが心配して電話をかけてくれた。『美羽、大丈夫? 今どこにいるの?』「大くんの家だよ。意外にも冷静な気持ちのまま過ごせてるの。一人じゃなくて二人だから大丈夫って思えるのかもしれない。心配しないで」真里奈も千奈津も仕事を終えて心配して電話をくれた。皆心配してくれて、温かい。夜になって大くんが帰って来たから玄関まで迎えに行く。大くんの顔を見ると一気に安堵する。「お帰り」「ただいま。報道すごかったな。寧々と二股とか失礼だよな。俺は美羽しか愛してないのに」「大くん、冷静だね」「マスコミはこんなもんだよ。美羽は大丈夫か?」「意外に平気。自分でも驚いてるよ」私は台所へ行って用意していた料理を配膳する。下手っぴだけど愛情を込めて作ったのだ。なんかこうやって一緒にいると夫婦みたい。「おー、栄養満点だな。ライブも近いし体力づくりしなきゃいけないから助かる」野菜炒めと生姜焼き。苦労して作り上げた。「美味い」と喜んでくれると明日も作ってあげたくなっちゃう。食べてくれる大くんと目が合う。「仕事を辞めて、専業主婦になってもいいんだぞ」驚いて大くんの顔を見るとすごく優しい顔をしている。今までも一緒にいたいと思ったけど、本当にこの人のお嫁さんになりたいって思う。「地方の仕事だったり、海外に行くこともあるし。一緒に行ってもいいんだぞ」「迷惑じゃないの?」「家族を一緒に連れて行く人多いんだ。美羽と離れたくないから俺は大歓迎だよ。ゆっくり考えるといいさ。美羽の好きなようにしろ」そうは言ってくれたけど、まだ入籍前だし甘えてもいいのだろうか。でも、こんな風に幸せな時が続け
二人で食事を終えて会話をしているとチャイムが鳴った。時計を見ると二十二時を過ぎている。大くんがインターホンに出ると小桃さんと寧々さんだった。ドアを開けに行った大くんは、二人を連れてリビングまで入ってきた。寧々さんを見ると明らかに憔悴しきっている。「美羽ちゃん、こんばんは。寧々さんがどうしても謝りたいって。というか、謝りなさいって教えてあげたの。遅い時間にごめんね」小桃さんがウィンクした。「ま、座ってください」大くんの言葉で小桃さんと寧々さんはソファーへ腰を降ろした。「私、お節介かもしれないけど。美羽ちゃんに幸せになってほしい。それと同じように寧々さんにも幸せになってほしいと思って。その第一歩として謝ることだと思って。自分の気持ちに決着を付けないといけないでしょ。ね、寧々さん」寧々さんは「ええ」と小さな声で言った。笑顔すら作らない寧々さんは、魂が抜けたような力ない顔をしている。何から話せばいいのか困った表情をしながらも、寧々さんは口を開いた。「今まであたしに声をかけられて落ちない男はいなかった。でも、大樹はあたしに興味を示さなかったから……悔しかったの。絶対に自分の恋人にしてやる、旦那にしてやるって気持ちでいるうちに……本気で好きになってた」表情を変えずにマグカップを見つめたまま寧々さんは涙をポロッと落とした。同世代の大人の女性が人目も気にせず泣くなんて、よほど大くんのことが好きなのだろう。だからと言って譲る気にはなれない。私だって大くんを心から愛しているんだから。「大樹が美羽さんを愛していると知って悔しかった。だって、どこにでもいそうな人だったから」たしかに、私はどこにでもいそうな人間だ。大くんがどうして私を愛し続けてくれたのか、わからない。「美羽はどこにでもいそうな人じゃない。俺にとっては世界で一番の女だ」冷静な表情で真っ直ぐ寧々さんを見つめたまま、そんな恥ずかしいことを言うなんて思わなかった。小桃さんは「あら、お熱い」と独りごちる。「ええ。今では理解したつもり……」「美羽に出会わなければ、俺は生きていなかったかもしれない」ご両親もお兄さんも失った中、頑張って生きていた大くん。きっと、想像を絶するほど辛かったよね。「嫉妬の塊でマスコミに過去を流したのは……あたしなの。そのせいで美羽さんは会社を休まされて嫌がらせに
「俺たちはさ、自分のやりたい道を見つけて、それぞれ進んでいけるかもしれないけど、今まで応援してくれた人たちはどんな気持ちになると思う?」どうしてもそこだけは避けてはいけない道のような気がして、俺は素直に自分の言葉を口にした。光の差してきた事務所にまた重い空気が流れていく。でも大事なことなので言わなければならない。苦しいけれど、ここは乗り越えて行かなければいけない壁なのだ。.「悲しむに決まってるよ。いつも俺たちの衣装を真似して作ってきてくれるファンとか、丁寧にレポートを書いて送ってくれる人とか。そういう人たちに支えられてきたんだよね」黒柳が切なそうな声で言った。でもその声の中には感謝の気持ちも感じられる。デビューしてから今日までの楽しかったことや嬉しかったこと辛かったことや苦しかったことを思い出す。毎日必死で生きてきたのであっという間に時が流れたような気がした。「感謝の気持を込めて……盛大に解散ライブをやるしかないんじゃないか?」赤坂が告げると、そこにいる全員が同じ気持ちになったようだった。部屋の空気が引き締まったように思える。「本当は全国各地回って挨拶をさせてあげたいんだけど、今あなたたちはなるべく早く解散を望んでいるわよね。それなら大きな会場でやるしかない。会場に来れない人たちのためには配信もしてあげるべきね」「そうだね」社長が言うと黒柳は返事してぼんやりと宙に視線を送る。いろんなことを想像している時、彼はこういう表情を浮かべるのだ。「今までの集大成を見せようぜ」「おう」赤坂が言い俺が返事をした。黒柳もうなずいている。「じゃあ……十二月三十一日を持って解散する方向で進んでいきましょう。まずはファンクラブに向けて今月中にメッセージをして、会場を抑えてライブの予告もする。その後にメディアにお知らせをする。おそらくオファーがたくさん来ると思うからなるべくスケジュールを合わせて、今までの感謝の気持ちで出演してきましょう」社長がテキパキと口にするが、きっと彼女の心の中にもいろんな感情が渦巻いているに違いない。育ての親としてたちを見送るような気持ちだろう。それから俺たちは解散ライブに向けてどんなことをするべきか、前向きに話し合いが行われた。
「じゃあ、まず成人」 赤坂は、名前を呼ばれると一瞬考え込んだような表情をしたが、すぐに口を開いた。 「……俺は、作詞作曲……やりたい」 「そう。いいわね。元COLORプロデュースのアイドルなんて作ったら世の中の人が喜んでくれるかもしれないわ」 社長は優しい顔をして聞いていた。 「リュウジは?」 社長に言われてぼんやりと天井を見上げた。しばらく逡巡してからのんびりとした口調で言う。 「まだ具体的にイメージできてないけど、テレビで話をするとか好きだからそういう仕そういう仕事ができたら」 「いいじゃないかしら」 最後に全員の視線がこちらを向いた。 「大は?」 みんなの話を聞いて俺にできることは何なんだろうと考えていた。音楽も好きだけど興味があることといえば演技の世界だ。 「俳優……かな」 「今のあなたにピッタリね。新しい仕事も決まったと聞いたわよ」 「どんな仕事?」 赤坂が興味ある気に質問してきた。 「映画監督兼俳優の仕事。しかも、新人の俳優を起用するようで、面接もやってほしいと言われたみたいなのよ」 社長が質問に答えると、赤坂は感心したように頷く。 「たしかに、いいと思うな。ぴったりな仕事だ」 「あなたたちも将来が見えてきたわね。私としては事務所に引き続き残ってもらって一緒に仕事をしたいと思っているわ」 これからの自分たちのことを社長は真剣に考えてくれていると伝わってきた。 ずっと過去から彼女は俺らのことを思ってくれている。 芸能生活を長く続けてやっと感謝することができたのだ。 今こうして仕事を続けていなかったら俺は愛する人を守れなかったかもしれない。でも美羽には過去に嫌な思いをさせてしまった。紆余曲折あったけれどこれからの未来は幸せいっぱいに過ごしていきたいと決意している。 でも俺たちが解散してしまったらファンはどんな思いをするのだろう。そこの部分が引っかかって前向きに決断できないのだ。
それは覚悟していたことだけど、実際に言葉にされると本当にいいのかと迷ってしまう。たとえ俺たちが全員結婚してしまったとしても、音楽やパフォーマンスを楽しみにしてくれているファンもいるのではないか。解散してしまうと『これからも永遠に応援する』と言ってくれていた人たちのことを裏切るのではないかと胸の中にモヤモヤしたものが溜まってきた。「……そうかもしれないな。いずれ十分なパフォーマンスもできなくなってくるだろうし、それなら花があるうちに解散というのも一つの道かもしれない」赤坂が冷静な口調で言った。俺の意見を聞きたそうに全員の視線が注がれる。「俺たちが結婚してもパフォーマンスを楽しみにしてくれている人がいるんじゃないかって……裏切るような気持ちになった。でも今赤坂の話を聞いて、十分なパフォーマンスがいずれはできなくなるとも思って……」会議室がまた静まり返った。こんなにも重たい空気になってしまうなんて、辛い。まるでお葬式みたいだ。 解散の話になると無言が流れるだろうとは覚悟していたが、予想以上に嫌な空気だった。芸能人は夢を与える仕事だ。 十分なパフォーマンスができているうちに解散したほうが 記憶にいい状態のまま残っているかもしれない。 「解散してもみんなにはうちの事務所に行ってほしいって思うのは私の思いよ。できれば、これからも一緒に仕事をしていきたい。これからの時代を作る後輩たちも入ってくると思うけど育成を一緒に手伝ってほしいとも思ってるわ」社長の思いに胸が打たれた。「解散するとして、あなたたちは何をしたいのか? ビジョンは見える?」質問されて全員頭をひねらせていた。
そして、その夜。仕事が終わって夜になり、COLORは事務所に集められた。大澤社長と各マネージャーも参加している。「今日みんなに集まってもらったのは、これからのあなたたちの未来について話し合おうかと思って」社長が口を開くと部屋の空気が重たくなっていった。「大樹が結婚して事務所にはいろんな意見の連絡が来たわ。もちろん祝福してくれる人もたくさんいたけれど、一部のファンは大きな怒りを抱えている。アイドルというのはそういう仕事なの」黒柳は壁側に座ってぼんやりと窓を見ている。一応は話を聞いていなさそうにも見えるが彼はこういう性格なのだ。赤坂はいつになく余裕のない表情をしていた。「成人もリュウジも好きな人ができて結婚したいって私に伝えてきたの。だからねそろそろあなたたちの将来を真剣に話し合わなければならないと思って今日は集まってもらったわ」マネージャーたちは、黙って聞いている。俺が結婚も認めてもらったということは、いつかはグループの将来を真剣に考えなければならない時が来るとは覚悟していた。時の流れは早いもので、気がつけば今日のような日がやってきていたのだ。 「今までは結婚を反対して禁止していたけれど、もうそうもいかないわよね。あなたたちは十分大人になった」事務所として大澤社長は理解があるほうだと思う。過去に俺の交際を大反対したのはまだまだ子供だったからだろう。どの道を進んでいけばいいのか。考えるけれど考えがまとまらなかった。しばらく俺たちは無言のままその場にいた。時計の針の音だけが静かに部屋の中に響いていた。「俺は解散するしかないと思ってる……」黒柳がぽつりと言った。
今日は、COLORとしての仕事ではなく、それぞれの現場で仕事をする日だ。 その車の中で池村マネージャーが俺に話しかけてきた。「実は映画監督をしてみないかって依頼があるのですが、どうですか? 興味はありますか?」今までに引き受けたことのない新しい仕事だった。「え? 俺にそんなオファーが来てるの?」驚いて 思わず 変な声が出てしまう。演技は数年前から少しずつ始めてい、てミュージカルに参加させてもらったことをきっかけに演技の仕事も楽しいと思うようになっていたのだ。まさか 映画監督のオファーをもらえるとは想像もしていなかった。「はい。プロモーションビデオの表情がすごくよかったと高く評価してくれたようですよ。ミュージカルも見てこの人には才能があると思ったと言ってくれました。ぜひ、お願いしたいとのことなんです。監督もしながら俳優もやるっていう感じで、かなり大変だと思うんですが……。内容は学園もので青春ミステリーみたいな感じなんですって。新人俳優のオーディションもやるそうで、そこにも審査員として参加してほしいと言われていますよ」タブレットで資料を見せられた。企画書に目を通すと難しそうだけど新たなのチャレンジをしてみたりと心が動かされたのだ。「やってみたい」「では早速仕事を受けておきます」池村マネージャーは早速メールで返事を書いているようだ。新しいことにチャレンジできるということはとてもありがたい。芸能関係の仕事をしていて次から次とやることを与えてもらえるのは当たり前じゃない。心から感謝したいと思った。
大樹side愛する人との平凡な毎日は、あまりにも最高すぎて、夢ではないかと思ってしまう。先日は、美羽との結婚パーティーをやっと開くことができた。美羽のウエディングドレス姿を見た時、本物の天使かと思った。美しくて柔らかい雰囲気で世界一美しい自分の妻だった。同時にこれからも彼女のことを命をかけて守っていかなければならないと感じている。紆余曲折あった俺たちだが、こうして幸せな日々を過ごせるのは心から感謝しなければならない。当たり前じゃないのだから。お腹にいる子供も順調に育っている。六月には生まれてくる予定だ。昨晩は性別もわかり、いよいよ父親になるのだなと覚悟が決まってきた気がする。女の子だった。はなの妹がこの世の中に誕生してくるのだ。子供の誕生は嬉しいが、どうしても生まれてくることができなかったはなへは、申し訳ない気持ちになる。母子共に健康で無事に生まれてくるように『はな』に手を合わせて祈った。手を合わせて振り返ると隣で一緒に手を合わせていた美羽と目が合う。「今日も忙しいの?」「うん。ちょっと遅くなってしまうかもしれないから無理しないで眠っていていいから」美羽は少し寂しそうな表情を浮かべた。「大くんに会いたいから起きていたいけど、お腹の子供に無理をかけたくないから、もしかしたら寝ているかもしれない」「あぁ。大事にして」俺は美羽のお腹を優しく撫でた。「じゃあ行ってくるから」「行ってらっしゃい」玄関先で甘いキスをした。結婚して妊娠しているというのにキスをするたびに彼女はいまだに恥ずかしそうな表情を浮かべるのだ。いつまでピュアなままなのだろうか。そんな美羽を愛おしく思って仕事に行きたくなくなってしまうが、彼女と子供のためにも一生懸命働いてこよう。「今度こそ行ってくるね」「気をつけて」外に出てマンションに行くと、迎えの車が来ていた。
少し眠くなってきたところで、玄関のドアが開く音が聞こえた。立ち上がって迎えに行こうとするがお腹が大きくなってきているので、動きがゆっくりだ。よいしょ、よいしょと歩いていると、ドアが開く。大くんがドアの前で待機していた私は見てすごくうれしそうにピカピカの笑顔を向けてきた。 そして近づいてきて私のことを抱きしめた。「美羽、ただいま。先に寝ていてもよかったんだよ」「ううん。大くんに会いたかったの」素直に気持ちを伝えると頭を撫でてくれた。私のことを優しく抱きしめてくれる。そして、お供えコーナーで手を合わせてから、私は台所に行った。「夕食、食べる?」「あまり食欲ないんだ。作ってくれたのなら朝に食べようかな」やはり夜遅くなると体重に気をつけているようであまり食べない。この時間にケーキを出すのはどうかと思ったけれど、早く伝えたくて出すことにした。「あ、あのね……これ」冷蔵庫からケーキを出す。「ケーキ作ったの?」「うん……。赤ちゃんの性別がわかったから……」こんな夜中にやることじゃないかもしれないけど、これから生まれてくる子供のための思い出を作りたくてついつい作ってしまったのだ。迷惑だと思われてないか心配だったけど、大くんの顔を見るとにっこりと笑ってくれている。「そっか。ありがとう」嫌な表情を全くしないので安心した。ケーキをテーブルに置くと私は説明を始める。ケーキの上にパイナップルとイチゴを盛り付けてあった。「この中にフルーツが入ってるの。ケーキを切って中がパイナップルだったら男の子。イチゴだったら女の子。切ってみて」ナイフを手渡す。「わかった。ドキドキするね」そう言って彼はおそるおそる入刀する。すると中から出てきたのは……「イチゴだ!」「うん!」お腹の中にいる赤ちゃんの性別は女の子だったのだ。「楽しみだね。きっと可愛い子供が生まれてくるんだろうな」真夜中だというのに今日は特別だと言ってケーキを食べる。私と彼はこれから生まれてくる赤ちゃんの話でかなり盛り上がった。その後、ソファーに並んで座り、大きくなってきたお腹を撫でてくれる。「大きくなってきた」「うん!」「元気に生まれてくるんだぞ」優しい声でお腹に話しかけていた。その横顔を見るだけで私は幸せな気持ちになる。はなを妊娠した時、こんな幸福な時間がやってくると
美羽side結婚パーティーを無事に終えることができ、私は心から安心していた。 私と大くんが夫婦になったということをたくさんの人が祝ってくれたのが、嬉しくて ありがたくてたまらなかった。 しかし私が大くんと結婚したことで、傷ついてしまったファンがいるのも事実だ。 アイドルとしては、芸能生活を続けていくのはかなり厳しいだろう。 覚悟はしていたのに本当に私がそばにいていいのかと悩んでしまう時もある。 そんな時は大きくなってきたお腹を撫でて、私と大くんが選んだ道は間違っていないと思うようにしていた。自分で自分を肯定しなければ気持ちがおかしくなってしまいそうになる。 あまり落ち込まないようにしよう。 大くんは、仕事が立て込んでいて帰ってくるのが遅いみたい。 食事は、軽めのものを用意しておいた。 入浴も終えてソファーで休んでいたが時計は二十三時。 いつも帰りが遅いので平気。 私と大くんは再会するまでの間、会えていない期間があった。 これに比べると今は必ず帰ってくるので、幸せな状況だと感で胸がいっぱいだ。 今日は産婦人科に行ってきて赤ちゃんの性別がはっきりわかったので、伝えようと思っている。手作りのケーキを作ってフルーツの中身で伝えるというささやかなイベントをしようと思った。でも仕事で疲れているところにそんなことをしたら迷惑かな。 でも大事なことなので特別な時間にしたい。
「そんな簡単な問題じゃないと思う。もっと冷静になって考えなさい」強い口調で言われたので思わず大澤社長を睨んでしまう。すると大澤社長は呆れたように大きなため息をついた。「あなたの気の強さはわかるけど、落ち着いて考えないといけないのよ。大人なんだからね」「ああ、わかってる」「芸能人だから考えがずれているって思われたら、困るでしょう」本当に困った子というような感じでアルコールを流し込んでいる。社長にとっては俺たちはずっと子供のような存在なのかもしれない。大事に思ってくれているからこそ厳しい言葉をかけてくれているのだろう。「……メンバーで話し合いをしたいと思う。その上でどうするか決めていきたい」大澤社長は俺の真剣な言葉を聞いてじっと瞳を見つめてくる。「わかったわ。メンバーで話し合いをするまでに自分がこれからどうしていきたいか、自分に何ができるのかを考えてきなさい」「……ありがとうございます」俺はペコッと頭を下げた。「解散するにしても、ファンの皆さんが納得する形にしなければいけないのよ。ファンのおかげであなたたちはご飯を食べてこられたのだから。感謝を忘れてはいけないの」大澤社長の言葉が身にしみていた。彼女の言う通りだ。ファンがいたからこそ俺たちは成長しこうして食べていくことができた。音楽を聞いてくれている人たちに元気を届けたいと思いながら過ごしていたけれど、逆に俺たちが勇気や希望をもらえたりしてありがたい存在だった。そのファンたちを怒らせてしまう結果になるかもしれない。それでも俺は自分の人生を愛する人と過ごしていきたいと考えた。俺達COLORは、変わる時なのかもしれない……。